テニミュの原罪

当時の私はテニミュが好きだった。
いや、今現在嫌いになってしまったわけでもなければ、好きだった時代の私の感性も間違っていなかったと心から思ってる。
テニミュしか知らなかった私は、テニミュが本当に好きだったし、今も好きは好き。



ただ、ちょっとしたきっかけで我に帰ってしまった。
テニミュがとんでもない異常性をもった文脈を孕んでいて、わたし自身それを盲信してたことに気付いてしまった。


この記事は、テニミュの外からテニミュを見た時、その異常性に気付いてゾッとした話。
そして、この立場になってしまったわたしから見た、テニミュのしてきた事の罪深さについて。





テニミュって、歴史が深い。
会場も大きくて期間も長くて、常に「行こうと思えばいける」状態にある、興行として大きなもの。

テニミュ若手俳優のオタクする入口だった人たちって、他の作品の比じゃないくらい多いと思う。
いままでの卒業生の数を考えたら、テニミュを通らずに若手俳優のオタクしてる人口の方が少なく見える。
テニミュ若手俳優と、オタクと、それらを取り巻くすべての文化に齎す影響の強さは計り知れないくらい大きい。




テニミュにはテニミュにしかない、文化と文脈がある。それは歴史に裏打ちされてる。

テニミュ見るぞってなった時、
「初日と千秋楽を見ること」に非常に重きを置いている所ないですか。
テニミュに限らず他でもそう、それはそう。
最初と最後の瞬間は見たい。今の私も、ほかの公演でもそうする。
今回の話はそうじゃない。それだけの話じゃない。

テニミュの「初日と千秋楽」は、ほかでは無い付加価値があるから。
「入学式と卒業式」であり、そも、初日と千秋楽では完成度が、出来が違うのが「当然」なのがテニミュ


これがおかしいって話をしている。


「卒業までの成長を見守る」という公演期間60公演を通した全体の文脈を含めて演目として成立してしまっているのだ。





テニミュって常に平均点的に面白い。
わかりやすい筋書きの本編。強くなってく敵、主人公たち。本編に沿ったエモい歌詞に、ちょっとダサいけどそれゆえ耳に残る音楽。試合展開に沿って進むミュージカルはテンポが心地よくて、テニスボールの音、シューズのゴムのこすれる音。全部が試合展開に引き込んでくる。ベンチワークだって楽しいし、日替わりは長い公演期間中の醍醐味だと思う。


テニミュは面白い。
でも、テニミュより面白いものって間違いなくある。
それでもテニミュに通うのは、共通認識の中に横たわる「ドラマ」に魅せられてるから。



テニミュは「成長する」ことが良しとされる。
初日と千秋楽の違いは当然、そりゃそう、公演数多いし二ヶ月三ヶ月あれば人は変わるしそんだけの期間歌って踊り続けてれば嫌でも成長する。

いやでも、そもそも、その違いを、成長を、「キャスト込みの青春群像劇」を見たくて通っていないか?
卒業の涙を見たくて通っていないか?


「初日と千秋楽」を見たいのは
そこの「差」に価値が設定されているからだ。




これ、興行としてとんでもないのでは?





どんな演劇もナマモノだ。
どんなに安定した演技をする役者だって、コンディションによって変わる。
ひとりが良くても誰かがダメなら噛み合わない回もあれば、
何故か説明できない力でカチリと噛み合って、ものすごい熱量の公演ができることだってある。だから複数回見たら別物だったりして、それが楽しかったりもする。
どんな舞台だってそうだけど。


テニミュは作品の文脈に、そもそも、その「違いを見ることが含まれてしまっている」。
変な話じゃないか。
舞台って稽古期間で完成まで仕上げられているもので、
回ごとのナマモノとしての楽しみ方って、完成された作品の中で毎回の空気感の違いを楽しむとか、決められた枠の中での役者個人の気づきを見つけるとか、細かい程度のものなんじゃないのか。
少なくともわたしはそう捉えている。



テニミュは稽古で完成しない。常に変わっていく。
変わっていくことが良しとされている。


途中地点のテニミュ単品が、見れないものとか言ってるわけじゃない。
平均点的に面白い。
それでもテニミュに於いてはやっぱり、「千秋楽が一番出来がいい」のが確定している。そういう文化だからだ。

テニミュの価値の主軸は「テニスの王子様」のミュージカルとしてのクオリティのみに依るのではなく
キャスト込みの「青春群像劇」の筋書きに大きく阿ている。






そもそもこの価値観のズレに気付くきっかけは、わたしの応援してる俳優の、テニミュ内での扱いに違和感を覚えた時だった。


彼は別にテニミュがデビュー作ではなかった。
わたしはたまたま彼がテニミュに入る前の作品から応援してて、テニミュに行くってなって二年の拘束の確定に愕然とした記憶がある。
当時テニミュの間他の仕事できないみたいな不文律が、まだ生きてると思っていた頃だったし。


わたしはテニミュは2ndのオタクで、2ndが終わると共にテニミュから卒業するつもりだった口だった。だからテニミュって完全な新人が入るイメージが強かった。

テニミュがデビュー作みたいな人が多くて、テニミュと一緒に成長して、みたいな固定概念が刷り込まれてるタイプだったのだ、私自身。
(この頃は別にテニミュ自体に嫌悪感もなければ、こんな記事みたいな気づきは毛頭なかった。)



そんなテニミュの中に、別にテニミュがデビュー作じゃない推しが投入された。

すごく意識の高い俳優だと思う。他の人がそうじゃないって話ではないんだけど、常に100%で誰にでも平等に、客席にいる人みんなに平等に楽しさや想いを届けたいと自ら公言する人だ。そんなところが好きで応援している。

だから彼は最初からめちゃくちゃ作りこんでいた。〇〇がやる誰々、ではなくて、そのキャラクターになるために。
完成度が本当に高かったと思う。色眼鏡じゃなくて、彼の作り込みは尋常じゃなかったと思う。
彼自身も2年でとても成長した。めちゃくちゃ歌うまくなった。

彼はただただ、最初から最後まで役柄を貫いていた。一貫していた。力量とかとは別のところには、いい意味で変化がなく、「テニスの王子様」の「ここからここまでのこのキャラクター」を切り取って完璧に演じきって、テニミュから去っていった俳優だと思う。



テニミュの「一緒に成長していく」みたいな文脈からは、少し逸れた位置にいる人だったんじゃないかな、と今考えると思う。




その結果、彼は「プロ」ってすごく言われていた。
共演者からは「さん」付けされていた。
公式すらも、そういう扱いだった。




ゾッとした。
気持ち悪かった。
茶化されているようにしか見えなかった。
役者として板に立ってお金を貰っている時点で、キャリアに関係なく彼らは総じて「プロ」であるはずなのに、どうして一線引かれているのか?
それはテニミュの常識から逸れているからだ。
「青春群像劇」の文脈から外れているからだ。
そう気付かされた。
最初から役者として、テニミュを一つの仕事としてこなした結果がこれだ。









テニミュって、歴史が深い。
安定してる。大きい。長い。見る人の数もめちゃくちゃ多い。
でも、ただのひとつの興行であることは変わらない。
テニミュだけが特別なわけじゃない。
テニミュもただのひとつの舞台なはずなのに。


テニミュにはテニミュにしかないおかしな常識と文化と文脈が横たわっていて
テニミュのファンでいる間には、テニミュという異常性を孕んだ文脈に浸かっている。
盲信している。
強い協調意識から、それを良しとすることを強いる空気感すらある。

規模の大きなこれは、もはやひとつの宗教だ。





ついこの間ドリライで9代目が卒業した。
10代目も出演したらしい。
卒業、愛憎、涙、一緒に泣くファン……。毎日めちゃくちゃレポが流れてくる。
わたしが異教徒でいるような居心地悪さから、この話を思い出した。




テニミュの作った価値観に浸かった若手俳優も、ファンも、
酔ってしまっている。
完成させるまでという一連の流れ、「成長を見守る」なんていうものに。見守られるというある種の甘えに。





テニミュが罪深いのは、
青春群像劇としての文脈を、たくさんの人の価値観に刷り込んでしまったことだ。

若手俳優とオタクの関係が歪で拗れがちな現在の、きっかけの大きなひとつなんだろう。





繰り返すけれど、わたしはテニミュが好きだった。今も好き。
ただ、頭のてっぺんまであの空間に浸ることは、もう出来ないのだろうなと思う。